

窯元の若山義和氏は、昭和初期に創業した食料品店の長男として、大津市唐橋町で生まれ育ちました。今年、陶芸の道に入り34年目となりますが、義兄・小嶋太郎氏が信楽で大阪万博「太陽の塔」を陶芸制作する姿に感動したことが、そのキッカケでした。その後、信楽にて、義父から陶業界の普遍技術を教わり、滋賀県八日市に古くから伝わる布引焼の窯元で修業、その技法を汲む唐橋焼の創作へと繋がりました。
今でこそ、大津を代表する物産として欠かすことのできない“唐橋焼”ですが、窯を開いた20年前には、信楽焼や清水焼など違って、ブランド力の全くない“ゼロ”からの作陶活動のスタートでした。
若山氏は、『生まれ育った地域を表現する』ことを唐橋焼のコンセプトとして、他にはない、オンリーワンの陶器づくりを目指しました。そこから生まれたのが、琵琶湖の青を表現する独自の釉薬です。コバルトブルーの濃淡は、深さや天候によって色が変化する、広大な琵琶湖を思わせます。
また、モチーフとして採用したフクロウは、ギリシャでは森の哲学者、イギリスでは幸運を運ぶ鳥、アメリカでは子育て上手、東南アジアでは神様など、世界の人々にとってハッピーバードとして古くから親しまれていました。当時日本ではまだキャラクターとして定着していなかったフクロウに、窯元の若山氏は着目し、『十二支と猫、その次に続く14番目のキャラクターがフクロウである』と考えて、自らの作品に取り入れることにしました。


陶器は、時代と共にその必要性が移り変わってきました。古代には“神事道具”として求められ、その後、技術と人手が必要であることから権力者の力の誇示に利用され、鎌倉−江戸時代になると権力者が茶道文化とともに町へ陶器を持ち込むこととなりました。町では焼物の技術が広がりやすく、また人々の生活水準が上がったことで、権力者から一般庶民へも広がりを見せるようになりました。明治に入ってからは、地元の生活食器を作る窯が全国各地にできましたが、軽くて生産しやすく清潔で安い磁器、いわゆる”瀬戸物“が普及することによって、地域の良さを表現していた各地方の陶器は、すっかり下火になってしまいました。
そして現代、様々な場面で“速さ”を求められ、ゆとりがなくなってしまった人々は、自然と心が豊かになるものを求めているように思います。地方の窯もその地域の感動を発信するものとして、見直されるようになりました。若山氏も『速すぎる現代の人々に“やすらぎ”と“うるおい”をもたらす唐橋焼でありたい』と、琵琶湖ブルーのフクロウを創作し続けています。唐橋焼の作品には、陶芸1300年の伝統と同時に、若山氏が感じとった“今が求めるもの“が表現されています。
今、特に力を入れているのは、マンションのエントランスを飾る『陶板』です。安全のためにと、オートロックで閉じ込められた玄関を、心の休まる癒しの空間にしたいという思いを込めて、1畳ほどもある大きさの作品を、土づくり→整形→乾燥→素焼→施釉→本焼の過程を経て、約半年かけて仕上げます。昨年から今年にかけて、京都・北白川や滋賀・長浜のマンションなど、すでに8つの陶板を手掛けたそうです。
自らの創作活動だけでなく、多くの人に陶芸の楽しさを味わってもらおうと、園児・学生・企業・修学旅行生・高齢者などを対象に、積極的に陶芸教室を開いています。そして、唐橋焼で使用する粘土が、古代琵琶湖層に堆積したプランクトンや草木など、命あるものが変化して生成されたものであることを伝えます。命の宿された陶土にふれ、その暖かさを感じ、豊かな心を持ち続けて欲しいと願っています。