大津商工会議所のサイトで紹介されました 唐橋焼窯元へ戻る 東の国から京に入る関所の役割を担い、交通や軍事の要衝 として歴史舞台でも登場する「瀬田の唐橋」。 この橋を少し西に進むと、穏やかな表情のフクロウと、 青い色が印象的な、『唐橋焼窯元』のお店があります。 唐橋焼は、古くから伝わる陶の技法をベースに、 独自で開発した青色の釉薬で色彩を加え、 世界で古来より愛されているフクロウをモチーフに、 大量生産はせず一つ一つに思いを込めて、 手描き・手作りされている陶器です。
窯元の若山義和氏は、昭和初期に創業した食料品店の長男として、大津市唐橋町で生まれ育ちました。今年、陶芸の道に入り34年目となりますが、義兄・小嶋太郎氏が信楽で大阪万博「太陽の塔」を陶芸制作する姿に感動したことが、そのキッカケでした。その後、信楽にて、義父から陶業界の普遍技術を教わり、滋賀県八日市に古くから伝わる布引焼の窯元で修業、その技法を汲む唐橋焼の創作へと繋がりました。
故郷を表現し、1作品ごとに思いを込める手作りの陶器は、やがて報道機関の 目にも止まり始めました。平成4年、旅番組の草分け「ふるさとジップ探偵団」(関西テレビ)で大きく報道され、放映の当日・翌日、瀬田の唐橋や唐橋焼窯元に沢山の方々が訪れたことは、若山氏にとって未だに鮮明な記憶として深く残っているそうです。その後も、朝日放送の「歴史街道」で2度、地元の琵琶湖放送の「近江深呼吸」などでも取り上げられ、NHK大津放送局でも、度々、活動が報道されています。
陶器は、時代と共にその必要性が移り変わってきました。古代には“神事道具”として求められ、その後、技術と人手が必要であることから権力者の力の誇示に利用され、鎌倉−江戸時代になると権力者が茶道文化とともに町へ陶器を持ち込むこととなりました。町では焼物の技術が広がりやすく、また人々の生活水準が上がったことで、権力者から一般庶民へも広がりを見せるようになりました。明治に入ってからは、地元の生活食器を作る窯が全国各地にできましたが、軽くて生産しやすく清潔で安い磁器、いわゆる”瀬戸物“が普及することによって、地域の良さを表現していた各地方の陶器は、すっかり下火になってしまいました。
陶板制作 下絵書き込み風景(整形工程の一部)
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